2011年02月21日

【不定期連載】無言と無音の対立命題(1)

数ヶ月放置したかと思ったらいきなり怒涛のイキオイ(当ブログ比)で更新しだすさわのじさんですよ。

実は某所だけで限定公開していた作品なので、アグレッシブに書いていたわけでもないのですが。
1年半ほど前に小部数だけ出した同人誌の焼き直しなのですが、同人誌版もそれなりの長さだったのに書き直したら更に長くなってしまって……。
かなり不定期な連載になると思いますが、これを連載している間はこのブログやめねーぞ!な心意気でいきます。

病気で声がでなくなった面倒くさい性格したヒキコモリマスターと、そんなマスターのところにきたがためになかなか歌にたどりつけないKAITOの、あんまり心が温まらない日常物です。

それでは続きからどうぞー。


《プロローグ》

 マスターと出会ったのは冬も近づく十月の末ごろのこと。
「はじめまして、ボーカロイドのカイトです」
 頭をたれて片手を差し出した僕を、マスターは興味なさそうに見つめていた。
 成長期男子にしては少し痩せすぎで、顔も青白くて、不健康的な印象ばかりが先に立つ。一目見て歓迎されてないのだけはわかった。
 僕からはすぐに目をそらして、マスターは口元を動かす。声はない。だけど僕は、それがどういう意味をもっていたのかわかってしまった。
「いらない、ですか……?」
 マスターは確かに、音にならない声でそう告げていた。
 踵を返そうとしていたマスターが、ぴくりと身体をこわばらせる。そしてあからさまな不快感を顔に出して、初めて僕の顔をまっすぐに見つめた。
「あ、申し訳ありません、マスター。僕には口の動きで言っていることがわかるように、特殊なプログラムが組み込まれているもので」
 マスターの目が、今度はご両親に向く。口元が動く。「余計なことをするな」と。
 そのまま、マスターはリビングを出て行ってしまった。取り残された僕は呆然と立ち尽くす。

 それが僕とマスターの、物語のはじまり。
 無言でいることしかできない人間と、音をもらうことができないボーカロイドが、ひとつの終わりを迎えるまでの、プロローグにすぎない出会いの一幕。


《Scene.1》 ボーカロイドはヒキコモリに夢を見るか

 マスターのことを語る前に、僕のことを語るべきなんだろう。
 僕はカイト。これは商品名であって、別に固有の名前をつけることも可能なんだけど、マスターは僕に特別新しい名前をつけなかったので、そのまま僕の呼び名にもなっている。正確にはアルファベット表記で「KAITO」だ。
 最近、一般家庭にも普及しつつある自立型ヒューマノイド。それも、極めて人間的な思考能力を有する最新型AIを搭載したモデルで、これでいて実は結構な高級品だったりする。
 ちなみに僕の声は、実在の人間の声をサンプリングして作られたボーカロイドという合成歌唱音源ソフトをベースにしている。最近は、ボーカロイドといえば、ソフトそのものよりボーカロイド音声搭載のヒューマノイドのことを指すようになってきた。
 家事などの作業代行用ではなく、あくまで歌唱、会話を目的としたヒューマノイドだから、当然特技も歌を歌うことだったりするわけだけど、僕の場合は「特注品」なので少し事情が違う。
 それには、僕のマスターのことを話さなければならない。
 僕のマスターの名前は鶫原蒼(つぐみばら・あおい)。十七歳だ。職業はニート……にしかみえないけど、単に高校を休学中なだけらしい。
 休学の理由は、病気療養による長期入院と病後療養のため。マスターは喉の病気で手術をして以来、声がでなくなってしまった。将来的には声帯の再生もできるとのことだけど、リハビリには時間がかかるし、元通りの声に戻ることはまずないだろう。
 言葉をなくしたマスターに、マスターのご両親と主治医が相談して購入を決めたのが僕だ。
 唇の動きを見て何を言っているのか判断する、読唇用のプログラムを搭載したボーカロイドをマスターの「通訳兼話し相手」にする。声がでないというハードルを背負ったマスターの、助けとなるように――。
 ……実情はといえば。
「マスター、晩御飯を持ってきましたよー」
 マスターの部屋に入って、トレイをベッド脇にすえられたサイドテーブルに置く。
 マスターは振り返りもしない。無心にPCを見つめている。PC画面はいつでもぬこぬこ動画が全画面表示だ。ちなみにぬこぬこ動画は愛らしい動物動画専用癒し系ポータルサイト。……この人、意外とかわいいものが好きです。
 夕飯を持ってきた僕には、見向きもしない。昼ごはんは半分以上残されている。僕はその食べ残しだらけのトレイをかわりに引き取っていく。
 この家にきて半月。僕はすっかりマスター専用の給仕係です……。どうせ今日も顔すら見せてくれないんですよね、わかります。
 最近覚えた。こういう状況「ガン無視」と呼ぶんだということを。
 これでもマシにはなった。最初は部屋にすらいれてもらえなかったのを、食事を運ぶだけだからと何とか説き伏せて、「いらない子」から「給仕係」にランクアップしたのだから。
「マスター、ただでさえ痩せすぎなんですから、もう少しご飯をちゃんと食べてくださいね」
 どうせ聴いてはいないのだろうけど、僕は一応その背中に声をかけておく。
 実際、マスターの痩せ方は少し病的なものがある。病気療養中なのだから当たり前なのかもしれない。それにしても、吹けば飛びそうというか、触ったら折れそうというか……。
「ええと、その、できるだけ晩御飯を残さないように、お願いしますっ!」
 そう告げて僕はくるりと後ろを向く。
 けほ、と咳をする音が聞こえたので、そのまま首だけ巡らせて後ろを見る。
 マスターと、目があった。
「あ、その、えーと」
 不自然にぎこちない動きで、くるりと再び方向転換。マスターは半身だけ僕の方をむいている。そう、こちらを向いているのだ。この、ぬこぬこ動画以外興味ないマスターが!
 マスターの口元が動く。
『うるせぇ。それと、晩飯、いらねぇ』
 ああ、初めての自主的会話内容がそんな!
「少しくらいは食べてください。身体に悪いですよ」
『いらないもんはいらない』
「さっきも咳してたじゃないですか。体調悪くする前に少し食べて体力をつけないと……」
『お前は俺のおふくろか』
「袋? え、マスターは袋がご入用ですか!?」
『ド阿呆』
 マスター、僕はもっと穏やかで優しい初会話を楽しみたいわけでして……。
 トレイをもったままうなだれている僕に、マスターは引き出しの中をごそごそと漁りはじめる。うわぁ、マスターが机をパソコンをいじる以外に利用しているのを初めて見た。感動の瞬間だ。
 マスターが取り出したのは財布で、その中から千円札を一枚取り出して僕に突き出した。
『アイス買って来い。食べてやる』
「……身体が冷えますよ?」
『アイスを、買って、来い』
 ゆっくりと、心を込めた口パクだった。
 僕は渋々千円を受け取る。このまま粘っても晩御飯をまともに食べてくれるはずもないし、何も食べないよりは食べたいものを伝えてくれただけマシだと思うことにする。
 何せ、これがマスターからいただいた初めての命令なわけで。給仕係りから使い走りにランクアップですね! ……あれ、これランクアップなんだろうか。
 疑問はとりあえず頭の隅においておくことにして、僕はこの初めての使命を果たすべく、マスターのお母さんからの許可を得て徒歩五分の距離にあるコンビニまで繰り出した。夜で人の少ない時間帯とはいえ、季節的に少し気が早すぎるコートとマフラー装備で、しかも青い髪の僕は何だか奇異の目で見られてしまったけれども……。
 何のアイスが良いのか聞いていなかったな、と思いつつ、無難で(何かカロリーもありそうな)バニラアイスにしてみる。店員さんが青い髪をちらちらと見ているのが気になった。そんな目で僕をみないでください……。
 初めてのお使いに一喜一憂しつつ、家に戻ってマスターの部屋をノックする。返事がないのはいつものことなので、遠慮なく入る。
 ……と、マスターがパソコンの前ですやすやと居眠りをしていた。
「ちょ、マスター!」
 もしかするとマスターは、僕を追い払いたかっただけなんだろうか。
 晩御飯は手付かずのままだ。マスターは、僕の声に驚いたのか、ぴくりと肩を奮わせる。むくりと顔をあげる。僕を見る。またパソコンの前で突っ伏す。動画では癒し系の子猫が「にゃー」と鳴く。
「マスター、アイス! 溶けますよ!」
 引き下がることもできずに、僕はマスターの肩を揺する。
 マスターは不機嫌全開の顔で、再びむくりと半身を起こす。
『うるせぇ、マフラー野郎』
 この人、声に出さない(出せない)からわかり辛いけど、実は口が悪い! とてつもなく悪い!
「マスターが買って来いって言ったんじゃないですか……。アイスなら食べてくれるって……」
『知るか、白コート野郎』
「マフラーもコートも僕のデフォルト衣装です! この格好がお嫌いなら、別の衣装を用意してくれないことには、僕にはどうしようもないです!」
 マフラーも白コートも僕のトレードマークなのに。いじけた僕の手から、マスターは乱暴にアイス入りのポリ袋を奪い取る。中のバニラアイスを見て、少しだけ顔つきが変わった。眉間のしわ、五割減。どうやらバニラが好きらしい。
 ごそごそとへらを取り出し、食べ始める。この人がまともに物を食べているのを初めて見た。感動の名シーンだ。
「あの、これお釣りです。お好きならまた、買ってきます」
 僕の言葉に、マスターは答えなかった。僕のほうには見向きもせず、アイスと動画に没頭しはじめる。晩御飯は結局、手付かずのまま。僕は仕方なく、トレイの隣にお釣りを置いておく。残りの今日の任務は、マスターが寝る前にトレイを回収しにくることだけだ。そのまま部屋を出ようと、ドアに手をかけた。
 と、そこでマスターがまた咳き込んだ。今度は少し苦しげに。
「マスター、大丈夫ですか?」
 ゴホ、ゴフ、と変な咳をくり返すマスターに、僕は晩御飯のトレイに乗っていた水の満たされたを差し出す。それを何口か飲んで一息ついたらしいマスターは、もういい、とでもいいたげに僕にコップを押し付けてきた。
「アイスで身体が冷えたんですよ。病み上がりなんですから、もう少し健康的な生活をしてください」
 こんなことを言うと、また「お前はお袋か」と言われるんだろうか。
 だけど、その日はもう、マスターは僕に話しかけてこなかった。その日どころか、数日はまたガン無視モードだった。その日がたまたま気乗りしただけだったんだろう。
「マスター、食事のトレイここに置いておきますからね」
 一週間くらい経ったその日、僕は晩御飯のトレイを持ってまたマスターの部屋に入る。昼食は八割残されている。今日は朝もほとんど食べなかった。
 マスターはというと、相変わらず動画の中の猫に夢中だ。日がな一日犬猫を眺めていて飽きないのだろうか。
 マスターのご両親からは、マスターの病気が日常生活を送れる程度には快復していて、春からの復学も決まっていると聞かされている。だけど、今のマスターの様子を見る限りでは、とても復学できるようには思えない。病状がどうのというよりは、生活習慣的な意味で。
 痩せ細って華奢すぎるのと、何年日を浴びてないのかというレベルに青白い顔は、慣れてしまうとこういうものなのかとも思える。時折、寒い日などに咳き込むことはあるけれど、病気が再発している様子はない。……というか、そもそもどんな病気だったのか詳しく聞かされたわけじゃない。
 僕が知っているマスターは、こうやって自分の部屋のパソコン前で、延々と動画を見ているだけの人だ。あと、少し気になることと言えば、寝る時も起きている時も、首元を隠すハイネックのシャツやセーターを好んで着ていること。ご両親の話だと、どうものど元にある手術の痕をあまり見たくないらしい。
 マスターがニート……いや、休学中なだけだから一応、ニート予備軍に至るには、色々と僕には知り得ない何かが、きっとあるんだろう。
 ガン無視されている間に、僕だって何もしていなかったわけじゃない。僕なりに、マスターを理解するために色々考えている。たとえば、デスクの隣にカバーをかけて放置されているシンセサイザーの使い道とか、ブックレットの隅の方に寄せられている、クラシックやジャズ、J−POPなど、多岐に渡るジャンルのピアノスコア集とかのことだって、気にはなっている。僕だって、腐ってもボーカロイドだ。
 マスターの保護者であるご両親が僕を不要だという手続きをしない限りは、僕はマスターのために存在する。たとえ、ボーカロイドの本来の用途である「歌う」という本懐を果たすことも、僕に特別に与えられた「声が出ないマスターと意志の疎通を図れるようになること」という命題がろくに機能していなくても、僕は僕なりにマスターを理解して、支えていかなくてはいけない。マスターが本当は何を望んでいるのかは、まだわからないけれど……。
 というわけで、いつもはさっさと部屋を出るところを、おもむろに正座して待ってみたりするわけなんだけど。出て行かなかったことには、多分気づいていると思う。でも反応はいつものガン無視。
 そのまま、無言で部屋に佇むこと数分。あと一分待って無駄だったら、大人しく部屋を出よう。そう思って座っていると、マスターが突然椅子のキャスターをくるりと回して僕を見る。
「あ……えーと、ですね」
 あまりにも突然なので、僕はおもわずしどろもどろと呟いた。マスターはひたすら無言。口元をひきむすんだまま。
「な、何かありませんか? ほら、前みたいにアイス買ってくるとか」
 マスターの口元は「ねーよ」と動いただけで、他には特にコメントもない。
 僕はあせりながら、次に何を言えばいいのか必死に考えた。僕は若干特殊な用途で調整されたボーカロイドなので、既存のものよりもはるかに多岐な応答パターンが初めから搭載されているわけだけど、無から会話のきっかけを作り出せるような神がかり的なプログラムは搭載されていない。話しかけられた場合が前提での応答パターンなのだから、それも当然だ。
 ひたすら沈黙が続く。
 マスターの後ろで再生されているぬこぬこ動画の映像が、愛らしい声で「にゃーん」と鳴くのがまたいたたまれない。
 二回目くらいの「にゃーん」が聞こえてきたあたりで、マスターは少しだけ目をそらして、そして口を動かす。
『お前、バカなのか』
 延々と沈黙した末、開口一番それとか……!
「……まだまだ学習不足は否めません」
『そうじゃなくて、相手にもされず飯だけ運ぶ役やって、文句も言わねぇのかってことだ』
「それが僕の役目ですから」
『バカにされていると思わないのか?』
「僕らヒューマノイドは、基本的に主人に対して負の感情を抱かないように設定されています」
『……何をされても、人間を嫌いになったりしないと』
「基本的には。酷い暴力などを振るわれたりすると身を守るために強制的にスリープに入ったり、自信を喪失させるような言葉ばかり聞かされると情緒不安定になり反応が鈍くなったりしますが、マスター程度の口の悪さならば特に問題ありません」
『口の悪さなら、ね……』
「あ、いえ、決してマスターの言葉が乱暴なことを責めているわけでは!」
『つまり、そういう風に思ってはいるんだな』
「も、申し訳有りませんっ!」
『とりあえず、俺に機械を虐待する趣味はないから安心しろ』
「そうですか」
『それと、晩飯はいらん』
「いえ、そこは少しでも食べていただかないと困ります」
『食欲がない』
「それは日がな一日、ぬこぬこ動画を見ているせいじゃないでしょうか……!」
『撤回する。殴っていいか?』
「やめてください。僕の頭は案外硬いですよ。マスターの指が無事ですみません」
『やっぱ、お前はバカだ』
 それきり、マスターは何も言わなくなった。ただ、放置していた晩御飯のトレイの、ハンバーグを三分の一だけフォークで切り分けて、食べた。あとはご飯一口と、サラダを半分。それで食事は終了して、手の甲をひらひらひらと振って追い払うかのようなジェスチャーをする。
 今度こそ、粘っても無駄だろう。僕は、大人しくトレイを持って退散することにした。
 だけど、その日からマスターは、時々だけど僕と会話をするようになった。
 会話内容と言えば「アイス買って来い」だの「飯はいらねぇ」だのと、概ね食事のことなのだけど、単にそれ以外にほぼ話題が皆無だからだ。何せマスターは、お風呂とトイレ以外で全く自分の部屋から外に出ないような生活をしている。……この人、本当に復学できるんだろうか。
 僕の方からは話しかけない。一度「ぬこぬこ動画のオススメを僕にも見せてください」と所望してみたら、ものの見事に無視された。よほど気が向いた時以外は、やっぱり基本無視なのだ。
 ぬこぬこ動画の話題ですらこれなのだから、若干埃を被っているシンセサイザーや、ブックレットの隅にある楽譜の数々のことについて聞くなんてとんでもない。全く触れもしないから、尚更気になっている。
 しかし、ある日、僕は偶然にも答えに近づいた。マスターのお母さんが、復学に関する書類を整理していたのだ。私立御来屋学園高等部音楽科――。
「ごらいやがくえん、こうとうぶ、おんがく、か?」
 書類に書かれていた学校名を、思わず口に出して復唱する。
 マスターのお母さんが、少し困ったような顔で微笑んだ。
「これは“みくりやがくえん”て読むのよ。そういえば、カイト君にはまだ学校について詳しく教えていなかったわね」
 彼女は「少し待っていてね」と前置きして、リビングを出る。そしてほどなくしてパンフレットを持ってきた。白いピカピカした表紙には、近代的デザインの校舎の写真が載っている。どうやら芸術クラスが売りの学校らしく、普通科は存在しない。美術科と音楽科、新しく演劇科ができました、と。
 マスターのお母さんが、ページをめくる。美術科の紹介を過ぎて、次は音楽科。カリキュラムの紹介と、学校行事の紹介に至る。
 ……あれ、何だか見覚えのある生徒が。
 写真の下には説明文が書かれている。秋季発表会の様子。一学年の鶫原蒼君のピアノソロ演奏。
「……え、マスター?」
 今ほど痩せていないし表情も明るいけれど、マスターだ。小さい写真とはいえ、機械の僕の目に狂いはない。というか、こんな珍しい名前の同姓同名が同じ学校にいるわけがない。
「今はレッスンも休んでいるから全然弾かなくなっちゃったけど、あの子、ずっとピアノをやっていたの」
「ピアノ……ですか」
「中学の頃はコンクールで何度も優勝してね。新聞に載ったこともあるわ。高校もピアノの特待生として入ったのよ」
 あれ、もしかしなくてもマスターって、結構エリートだったんじゃ……。
 高校が音楽科だっただけでも(楽譜やシンセサイザーで音楽をやったことがあるのは予想済みだったにも関わらず)結構驚きの事実だったのに。コンクールで何度も優勝って、特待生って。
 ……日がな一日、猫動画ばっかり見ているマスターと、パンフレットの中のエリートな空気を纏っているマスターが、明らかに同一人物だということに激しく違和感が。
「あれ、でも……マスター、全然ピアノやってませんけど」
 音楽科ということは、復学したらまたピアノを弾くことになるわけで。ましてや特待生というならなおのこと。
「まさか、手も傷めてしまったとか?」
「いえ、そんなことはないの。ピアノはちゃんと弾けるはずよ。ただ、声をなくして、学校も長く休むことになって、すっかり気が沈んでしまったのね。全く弾かなくなってしまって……。転校させることも考えたんだけれど、やっぱりせっかく特待生で入ったのだからピアノを頑張って欲しいし、いずれにせよ声が出ない障害をきちんと理解してくださる学校じゃないと……」
 マスターのお母さんが、ぶつぶつと呟きながら深く深くため息をつく。ご両親はご両親で大変らしい。
 僕は、マスターがピアノを弾かなくなった理由について考える。
 指に障害が残る病気ではない。だからピアノが弾けなくなったわけじゃない。ピアノを弾かなくなったのは、精神的な問題だろう。レッスンに通っていたというなら、昔からほとんど外出しないニート状態だったわけでもなさそうだ。
 そもそも、僕はマスターが病気になる前、どんな風だったのか全く知らないのだ。僕にとって、マスターのイメージといえば、一日中動画を見ている不健康極まりないヒキコモリニートだ。愛想と口も悪い。
 だけどパンフレットに使われている写真のマスターは、演奏会の途中なのに涼しい笑顔すら浮かべている。僕はマスターの笑顔なんて、かけらも見たことがない。
「マスターはすごい人なのですか?」
 自分でもマヌケな質問だな、と思った。
 マスターのお母さんは、一瞬だけきょとんとして、そしてやっぱり困ったように笑う。
「『自慢の息子』なのよ、アレで」
「そうなのですか」
「そうなのよ。天才とか言われていたこともあったんだけど」
「すごいじゃないですか」
「だから、本当に自慢の子なのよ。だから、何とか立ち直って欲しいの。カイト君を買ったのも、音楽をやり直すきっかけになればと思ったのだけど」
 確かに、純粋に失声の障害だけをフォローするならば、いくらでも方法はある。手話や筆談もあるし、そういった障害の人をサポートするためのヒューマノイドだってあるのだ。わざわざボーカロイドにオプション機能をつける必要なんてなかった。あえてそうしたのは、マスターのご両親が「ボーカロイド」の本来の用途によって、マスターが音楽への意欲を取り戻してくれることを期待したんだろう。
 だけど、どうやって――?
 多分マスターは、僕を給仕係としか思っていない。もしかするとボーカロイドだという事実すら忘れているかもしれない。マスターを再び音楽と向き合わせることが僕の役割なら、どうすればいいんだろう。
 そもそも、本当にマスターは音楽をまだやりたいんだろうか。本気で辛くて、もうやりたくないなら、僕はマスターの望まないことはやりたくない。主人を苦しめたいと思うヒューマノイドなんていないのだ。
 パンフレットを前に考え込んでいると、カタン、と扉の開く音がした。
 まだマスターのお父さんは仕事から帰ってきていない。この家に他に兄弟はいないから、つまり、マスターがやってきたのだ。
 マスターはリビングに入ってこなかった。扉のところに立って、テーブルに広げられた学校の資料を凝視していた。ピクリとも表情を変えずに。不快な顔をしていたなら、僕はすぐにでもパンフレットを閉じて謝っただろう。マスターのあずかり知らぬところでプライバシーに触れたことの、許しを乞っただろう。
 だけど、マスターはひたすら無表情だった。だから僕は――マスターのお母さんも、動けずにいた。
 そのまま、どれくらい沈黙を共有していたのか。
 マスターがふいに動き出した。ゆっくりとテーブルに歩み寄って。復学の書類も、パンフレットも、全てまとめてまるめて、テレビの脇にあったごみばこに捨てた。そして、キッチンからペットボトルのコーラを取り出して、僕らには目もくれずに部屋に戻っていった。
 そして――その日からまた、マスターは話しかけてこなくなった。

 その時はまだ、僕は何も知らなかったのだ。
 マスターが音楽から離れてしまった、本当の理由を――。

【続く】
posted by さわのじ。 at 23:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説  | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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